中野大勝軒の歴史|中野大勝軒 東京都中野区中野3-33-13 |
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中野大勝軒は、昭和26年12月30日、橋場町(現在の中野区中央5丁目)で創業いたしました。 創業者の坂口正安は、今や日本全国にのれんが広がっている「大勝軒」の祖となる人物であり、戦後の中華そばの発展を支えたメンバーの1人でもあります。 当時は間口2間、奥行き1畳半の小さなお店でした。狭くはありましたが、お客様と気持ちが通じるお店として多くの方に親しまれ、おかげさまで創業50年を迎えました。 その後お店の場所は変わり店内も広くなりましたが、現在でも変わらないのは、カウンターを隔てて手が届くお客様との至近距離です。昭和・平成と時代が変わっても、心の通うお店でありつづけています。 50年間の人と人との絆、それは店主と従業員、そしてお客様との3つの輪。お店はお客様のためにあり、お客様が店員を育てて繁栄し、そして育つ店員が店を分けていく…。 中野大勝軒を発信地として、様々な場所に「大勝軒の心」が伝わっています。 現在の中野大勝軒店内。 坂口正安は大正13年長野県下高井郡山ノ内横倉で生まれました。 丸長のれん会では4代目の会長を勤めました。「つけそば」の名付け親として味の啓蒙に尽力し、多くの同胞に親しまれた存在でした。 昭和26年開店当時の大勝軒は中野区橋場町、現在の中野通り中央5丁目のバス停の前にありました。 間口は二軒、奥行きは一軒半の広さ、屋根はコールタール紙、壁はベニヤ、バラックでできた屋台の小さな店ですが、ついに自分の店を持つことが出来、坂口正安は感無量でした。このとき一緒に店を手伝ってくれたのが山岸一雄です。山岸は正安のいとこの子で、歳は10歳離れていますが当時から実の弟のような心強い存在でした。 朝は仕込みのために早くから出勤し、夜は中野駅の終電に合わせて帰宅する人々を迎え入れるように、人通りが絶えるまで深夜1時過ぎまでの営業です。雨がふっても雨合羽もなく出前に行かなくてはならない日々が続いた事もありました。 |